昭和100年雑感

弁護士 笠井 勝彦

 1926年12月25日に始まった昭和元年から100年目だった2025年が終わり、私も1歳年齢を加えて新しい年を迎える。

 憲法判例になった事件が発生した北海道の「鄙びた寒村」(判例評釈をした著名学者の表現)で「団塊の世代」の少し後に生まれ、隣の最果ての街の高校に進学して3年間を過ごし、図書館から借りた世界文学全集(翻訳)などを読み漁った。
 北海道を出たこともない私にとって、特にヨーロッパの小説などに登場する地理、風土、文化、制度などはとても興味深く、そのような読書の影響もあって弁護士になりたいと思うようになった。
 両親は、それぞれ十代半ばから他所で教育を受け、母は大戦中に戻ってきて代用教員となり、父は終戦後に学徒出陣から帰村したという体験のせいか、そのための大学進学を許してくれた(経済的にも大変だったと思う)。

 1970 年春の都内私立大学受験の帰路、夜行列車の中で知り合った人に勧められ、仙台で途中下車をし松島見物をしてから、のんびり帰郷した。そこには従兄から「サクラチル」の電報が届いていた。客観的には当然の結果でも私にはかなりのショックであり、見かねた両親から大阪万博に行くよう勧められ、4月に万博見物を終えてそのまま大田区内に間借りしていた姉方で半年間ほど世話になり、私の東京生活が始まった。
 家賃の安かった板橋区の四畳半で単身生活を始めるようになった後は、同窓の浪人仲間と少し遊ぶほかはアルバイトと予備校での勉強に精を出し、翌年、なんとか大学法学部に合格することができた。
 1975年、すなわち昭和50年3月に大学を卒業し、それまで択一試験にも合格していなかったが、同年11月には結婚した。
 それは、翻訳小説には「ロースクール(法学部)を出て弁護士になった」などと書かれていたことから、大学の法学部に行けば弁護士になれるだろうと思っていた私が、妻との間で大学を卒業したら結婚しようと約束していたためである。

 2025年が大学卒業から50年で、かつ、金婚式の年であった。たまたま結婚翌年の1976年10月に合格し、翌年4月からは司法修習生として「サラリー」もいただけるようになり、その後の三十数年にわたる給与生活が始まった。
 その後、2~3年ごとの転勤生活を繰り返し、2013年10月に前々職を辞し、初めての川崎に移り住み、8年余の前職を経て念願の弁護士になることができた。現住居(賃貸マンション)はすでに12年以上住んでおり、これまでの同一建物居住の記録を更新している。

 このように私の来し方を書きながら、その時、その場所におけるいろいろなことを想起した。その1つだけを書かせていただく。

 昨年は首長等政治家の醜聞がたくさんあった。その中で某市長(独身女性弁護士)の妻ある部下職員とのラブホ密会事件などと言われる出来事があった。
 不倫の疑いもあり、市長を辞めるべきというのが街の声であるなどと報道された。
 私は、仮に不倫があったとしてもそのことでなぜ市長を辞めなければならないのか、とても疑問に思った。かつて「不倫は文化である」と言った芸能人がいるが、不倫は小説の格好の対象であり、歌のテーマであるし、不倫関係の存在を前提に成り立っている商売もたくさんある。
 不倫を行うような人は、政治家であったり芸能人であってはならないのであろうか。
 その報道の中で、男女関係を否定している市長が大学の先輩でもあった県知事に相談したとの報道があったが、その知事はテレビカメラに向かって、市長が不倫を行っていることは明らかであるかのように言い放った。
 私にとっては、まさに唖然とせざるを得ない発言であった。知事など特に権力を持つ人などは本当に慎重な発言をしなければならず、自分の経験則などから断定的な判断などを述べるべきではないのではなかろうか。

 昔、妻から準現行犯的に現場を押さえられ、不貞を理由に離婚を求められた夫は、ガリレオのように「それでも私はしていない」と言い、その代理人弁護士は、状況からいって不貞は当然認められると述べる妻の弁護士に、それは「げすのかんぐり(下種の勘繰り)」にすぎないと反論した。
 婚姻関係が既に破綻していたので相続人事件は和解で終局したが、判決であれば不貞行為の存否をどのように判断したであろうか。