弁護修習を終えて

司法修習生 加藤  隆

 私は今年62歳の修習生である。これまで、33年間県職員として働き、59歳からロースクールに通い、61歳で司法試験に合格した。こんな高齢の修習生であるが、本田先生から、弁護士としての仕事を様々な形で学ばせていただいた。先生には、感謝の言葉もありません。
先生の仕事の取組みを見て、あるエッセーを思い出した。

 保守派の論客である福田恆存さんのエッセー「一匹と九十九匹と」は、私の好きな評論である。予備試験の一般教養の論文試験でこのエッセーを引用してAをもらった思い出がある。福田さんはまず、聖書の「ルカ文書」を引く。
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っていた者がいたとする。
その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいても、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩くであろう」とイエスは言う。宗教家であるイエスは、九十九匹の羊を放っておいたとしても、一匹の羊のためにその行方を探し求めるというのである。
ここで、福田さんは、宗教との対比において政治を挙げる。政治はむしろ、残った九十九匹の羊のためにあるという。
現実が政治を必要としている以上、一匹の羊を無視せざるを得ないのは、結局政治の限界なのだ。

 さらに、文学者とは何かを問う福田さんは、政治との対比で、文学は一匹の羊のためにあるべきだと主張する。
福田さんは言う。「もし文学も――いや、文学にしてなおこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいったいなにによって救われようか」、「文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷いとを体感していなければならない」と。

 法律家は、宗教家や文学者と並んで、世の中の片隅で悩みを持つ人を救うことのできる職業である。そのような法律家の仕事に、私は誇りを感じるし、やりがいを感じる。
私が指導を受けた本田先生は文学をこよなく愛する方で、悩みを持つ人を救うべく全身全霊を傾ける弁護士である。果たして、私が、先生の背に一歩でも二歩でも近づくことできるのか、考えるだけでため息が出てしまう。